【体験談】教師だった時、24時間先生でいないといけないことがつらかった

教育
咲月
咲月

こんにちは!在宅ワーカーの咲月です。

今回はちょっとだけ、過去の本音を載せてみます。

賛否両論あると思いますが、きっと同じように思って苦しんでいる人がいるから、

そんなあなたに届いてほしいと思って言葉にします。

Twitterで、チクリと心に刺さったツイートがあった。

私は、正直そんなに品行方正なわけではない。

出席簿はよく溜めていたし、小さいズルもちょこちょこしてた。

だけど、子どものころから「周りにどう思われるんだろう」って思うことは多かった。

わからないことだらけで過ごしていた1年目。

初任者研修に行くと、「周りに見られていることを忘れずに」と言われた。

学校に出勤すれば、朝の打ち合わせで教員の不祥事を報道する新聞記事が配布ていた。

家に帰ってスマホを見れば、「○○県で教員が~」と不祥事を起こした教員が実名報道されていた。

そして、休日に買い物に出れば、生徒や保護者に「先生」と声をかけられた。

公務員である以上、不祥事を起こしてはいけないのはわかっている。

生徒や保護者に笑顔で声をかけてもらえる存在であることも嬉しかった。

だけど、次第に心は重くなっていった。

ああ、校外でも『先生』でいないといけないんだ

これは誰の役にも立たない記事になると思うけれど、それでも話したいと思う。

私自身の話

私はとある田舎で育った。

学年はギリギリ2クラス。40人ちょっとで構成された、小中で代わり映えのしない同学年。

異性と2人で帰ろうものなら、3日後には全員の母親がそのことを知っていた。

田舎で噂のネタになるようなところを見られたら周知の情報にされる…。

そんな田舎の情報網を目の当たりにしたときから、私は周りを気にするようになった。

だから、噂されるようなところを見られたら全校生徒に知られると思った。

被害妄想だとわかっている。だけど、子どものころに植え付けられた恐怖は簡単には消えない。

「保護者や生徒に見られるような場所では、休日であっても気を抜いてはいけない」

そんな考えを補強するような、冒頭で話したような環境。

私は本気で、「先生」という生き物だから人権はないんだと諦めていた。

近所で買い物をするときでも、かごの中身を見られたらどう思われるだろうと考えた。

大学時代の大事な友だちでも、男性と一緒にいる時は常に周りを警戒していた。

どこに行っても学校関係者がいるんじゃないかと不安だった。

だから、自然と人通りの少ない時間や遠方、ネットの世界が居場所になっていた。

これが離職の直接的な理由ではないけれど、じわじわとメンタルは削られていた

例えるなら、ゲームの毒状態みたいな感じ。

明確なダメージを受けるわけではないけれど、絶えず少しずつライフが減っていくみたいな。

高校教員をやっている友人の話

大学時代の友人の1人が高校で教員をしている。

その友人を含む馴染みのメンバーで連休に集まって食事を行った。

楽しい時間だったし、なんてことはない普通のチェーン店だ。

だけど、連休明けに出勤した友人のもとに1人の生徒がやってきた。

「これ、先生でしょ!」

スマホに映っていたのは、連休の時に私たちと一緒に食事をする友人の姿だった。

その生徒に悪意はなく、友人が慕われているだけなのもわかっている。

だけど、友人の勤務校はその時集まった地域ではない。隣の市だ。

私はその話を聞いて、下手な怪談話よりも背筋が凍った。

特に田舎なら休日に行く場所は限られてくる。

自分のプライベートをいつどこで観察されているかわからないことが怖いのは、私だけだろうか。

飲み会の話

職場の飲み会も、友人との飲み会も、ほとんどが同業者だ。

同業者が集まれば自然と仕事の話になると思うが、私はいつも気が気ではなかった。

守秘義務に触れない話であっても、第三者に会話を聞かれるのが怖かったからだ。

お酒は楽しく飲みたいし、羽目を外したくなることもある。

だけど、会話の端々にまざる教員特有の単語(例えば、テストとか授業とか)は、誰にでも「学校関係者」だとわかってしまう

下手に愚痴や弱音を吐きだしたらどう思われてしまうのだろうか?

「○○駅の居酒屋で学校の先生っぽい人がこんなことを言っていた」

なんて言われでもしたら、特定は難しくないだろう。

プライベートな時間でも、友だちに愚痴も言えないのは苦しかった。

休日は「その他大勢」になれる他業種が羨ましかった

とても当たり前なことなのだが、勤務年数と比例して自分を知っている人の数は増えていく

子どもや保護者にとって、先生という存在は卒業しても「先生」なのだ。

仕事帰りに運転していたら、

交差点ですれ違った子たちに「あ!先生だ!」と叫ばれたことがある。

休日に近所を散歩をしていたら、「先生?」と声をかけられたこともある。

どちらも、勤務校のある学区の出来事だ。

卒業した生徒たちの行動範囲は驚くほど広い

もちろん、卒業しても覚えてくれているのはとても嬉しいし、その時の反応が好意的なものなのもとても嬉しい。その気持ちに嘘はない。

だけど、同時に「どこに行っても私が先生だと知っている人がいる」という気持ちが強まっていた。

気にしたら負けなんだろうし、私が気にしすぎなだけなんだと思う。

だけど、教員になって1年目の研修でくり返されるのだ。

「周りの人は見ていますよ。教員としての自覚を持ってください」と。

気にし過ぎだと言われればそれまでなのかもしれないが、仕事大好き人間が異常に多い業界だし、そもそも真面目なタイプが多い。

昔よりも「先生」というものはあくまで職業の1つだと考える人も増えたと思うけど、やっぱり

「先生なのに」

という批判的なニュアンスを含んだ感想はいまだに耳にする。

教員という仕事は、勤務時間でなくてもそこに生徒がいれば「先生」になってしまう。

教員に残業代がないのも、公私の境目が曖昧だからだと聞いたことがある。

戦線離脱した私の言葉にどれほど説得力があるのかはわからないし、私の話を被害妄想だと思う人もいるだろう。

だけど、この記事が教員という仕事のあり方を見直すきっかけになってくれれば嬉しい。

先生たちが苦しい環境でよい教育なんかができるわけない。

私は辞めてしまったけれど、今も仕事が嫌いになったわけではない。

だからオンライン家庭教師という形で私は今も他者と関わっている。

だから、私と同じように感じている人が、少しでも生きやすい世の中になってほしい

おまけ

中学時代に周りからの目が気になって身動きが取れなくなっていた私を救ってくれたのは、日木流奈さんの詩集でした。

咲月
咲月

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

他の記事も読んでくれると嬉しいです。

お仕事のご依頼もお待ちしております。

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